歴史ほっとブレ〜ク

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気まぐれタイムマシン
CONTENTS

ビートルズが解散した時代
1969〜1971年

ルノーが活躍した時代
1960年頃

カーマニアの愛車遍歴
1970〜2020年代

 

気まぐれタイムマシン

タイムマシンイラスト
気になる時代にタイムトラベル!

カーマニアの愛車遍歴

歴史ほっとブレーク編集部から「私の愛車遍歴を書いてみない?」とのお話をもらいました。車のことなら、 大好きな自負はあります。車好きの方と話し始めれば、メカニズムのことからメーカーのお家事情まで、評論家顔負けに延々と話せます。

ところが、いざ「それを文章にしてください」と言われると、話は別です。 残念ながら、まったく文才のない私は、頭の中にはいろいろと思い浮かぶのですが、文章にはなりません。
愛者遍歴の話は無かったことにしようかとも思いましたが、幸か不幸か、セミリタイアの身ですので時間は売るほどあったこともあり、しぶしぶ書き始めてみました。

それでも、これまで乗ってきた車を改めて振り返ってみると、それぞれの車に、その時々の生活や出来事、そして思い出がありました。
車好きの方には「もっと詳しく」と言われるかもしれませんし、逆に、車にあまり興味のない方には「車の話ばかりで退屈だな」と思われかもしれません。

そこはどうか大目に見ていただいて、一人の車好きがこれまでどんな車を選び、どんな時間を過ごしてきたのか……そんな「車と私の思い出話」として、気楽に読んでいただければと思います。

それでは、私のこれまでの愛車を、少しずつ振り返ってみたいと思います。

(カーマニア:池田 博)

愛車年代ごとの特徴
1960〜70年代のライトウェイト・スポーツ黄金期

「SR311」や「1300gt junior」など、現代でもファンが絶えない美しいデザインと五感に響く走りの名車たちが並びます。

1980〜90年代のモダン・クラシック期

ホンダの挑戦(レジェンド)や、空冷ポルシェの極み(964スピードスター)、ジャガーの過渡期など、メカニズムが大きく進化を遂げた時代です。

2000年代以降のハイテクノロジー・ラグジュアリー期

ジャガーのアルミボディ化や、最新の「AMG 53」シリーズに代表される、電動化技術(マイルドハイブリッド)を組み合わせた俊敏なモンスターマシンへと繋がっていきます。

1970年代

ホンダ1300クーペ7

1970〜1972年:本田宗一郎氏こだわりの「強制空冷エンジン」を搭載した、独創的でパワフルなクーペ。

1971年、18歳。
免許取得が許される年齢になると同時に、教習所に通い、免許証を手にした翌日に人生初の愛車を買った。
車種は二年落ちの白のホンダ1300クーペ7。
車を持つことが若者のステータスだった時代。
女性にもてるにも車は必須アイテムだった。
それでなくとも私は小さい頃からの筋金入りの車好きである。
それまでミニカーとプラモデルを集めることで我慢してきた私は、ついに本物を持つことが出来、舞い上がった。
ポンティアック風のフロントグリルと、コックピット風メーターパネルに心を奪われていた。
しかも知名度が低かった分、安かった。

ところが納車からわずか二週間後、高校時代の同級生だったT君の運転で雨の表参道の交差点で追突事故を起こし、フロントは大破。
普通なら落ち込むところだが、私はこれ幸いと、あまり好きでなかった白色から憧れのフェアレディ240ZGのマルーン色(暗い赤色)へと色替えした。
ホイールの黒塗りと、タイヤのホワイトレターは自分で塗った。
プラモデルモデラーの細部への拘りを、一分の一サイズでも始めてしまっていた。
ホンダ1300クーペ7は、自動車作りの経験が浅いホンダらしく、空冷エンジンが突出していた以外は、N360同様の軽自動車レベルの作りで、褒めるところがあまりなかった。 一年ほどで手放すことになる。

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フェアレディ2000(SR311)

1967年:「ダットサン・フェアレディ」。国産初の200km/hオーバーを記録した伝説のロードスター。

1972年: 次にやってきたのはフェアレディ2000(SR311)。
雑誌の個人売買欄で見つけ、前から好きな車で値段も手の届くものだったのでオーナーに電話し、現車は見ずに購入。
実際に乗ってみると、この車はフェアレディという女性的な名前とは正反対だった。
すべての操作類は重く、スポーツカーというよりはトラックに近い野性的な車だった。
運転未熟者の私には、到底、手に負える代物ではなく、幸い購入時より高値が付いたこともあり半年足らずで手放した。

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トヨタセリカ 1600 GTV

1973年:初代ダルマ・セリカに追加された、走りに振ったスパルタンな硬派グレード「V(ビクトリー)」。

その年、トヨタセリカが発売され、若者の憧れに。
市販車初のワイドタイヤを履かせたモデル、1600GTVを初めて新車で購入。
「送り迎えする」「今度は長く乗る」と、母親を騙して手に入れる。
長く乗るつもりで、色々弄ったものの、車好きの「長く乗る」は信用してはいけない。

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アルファロメオ1300GT junior

1963年から1976年まで、長きに渡って生産されたアルファロメオの最高傑作。

買って二年も経たない大学4年生のときに、友人の友人が赤いアルファロメオ1300GT juniorを手放すという話が舞い込んだ。
すごく憧れていた車だったので現車は見ずに話に乗った。
なぜ憧れていたかというと、忘れられない背景があった。
ホンダ1300クーペ7の事故車を引き取るため、早朝の表参道交差点でレッカー車を待っていた18歳の時のことだ。
まだ人通りも少ない交差点の赤信号で、一台の赤いアルファロメオが静かに止まった。
運転していたのは、当時、人気のあったドラマ「アテンションプリーズ」のヒロインを演じている女優の紀比呂子さん。
彼女の美しい容姿と赤いアルファロメオの組み合わせはやけにかっこよくて、まるで映画のワンシーンを見ているようで、若い私の脳裏に焼き付いた。
だから赤いアルファロメオの購入は、私にとって天の巡り会わせだった。

実際に乗ってみて、そのすごさに驚いた。
ボディデザインやインテリアの質感、気持ちいいエンジン音、足回りの剛性感。
それまで乗っていた日本車とは、まったく次元の違う乗り物だった。
ホイールやステアリングを変え、1300GT juniorは私の相棒となった。
昼は原宿のレオン、夜は六本木のメビウスや赤坂のビブロスと、毎日のように友人たちと若さを謳歌した。

もっとも私はアルファロメオと相思相愛気分でいたが、アルファロメオはちっとも優しいやつではなかった。
当時の輸入元であった伊藤忠の目黒整備工場に頻繁に入退院を繰り返すことに、サイドウインドゥの落下やブレーキ抜けなど日本車では考えられないようなトラブルも経験した。
結局、一年ほどで欲しがっていた大学時代の同級生に売却した

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フィアット124スパイダー

1966年:フェラーリを手がけたピニンファリーナがデザインした美しいオープンカー。長寿を誇った美しい一台。

そして社会人一年生。 自分への気合も込めて購入したのが、フィアット124スパイダー。 購入の決め手は、環八沿いにあった輸入中古車専門店チェッカーモータースの営業マンの一言である。「この車の前オーナーは石坂浩二さんです。助手席には浅丘ルリ子さんのお尻のぬくもりも残っています」 後に石坂浩二氏の愛車遍歴を見てもフィアットなど出てこない。
それでも若かった私は簡単に騙された。
真っ赤なボディ以上に、真っ赤な嘘だった。

それでも、このフィアットには大切な思い出がある。後に妻となる女性と、何度もドライブに出かけたことだ。
このフィアットに乗っていた頃は、若さゆえの無謀さもかなりあった。
季節を問わずほとんど毎日、屋根を開けて走っていた。
排気ガス嫌いの私は前を走る車の後ろには付きたくない、いつも一番前。
その結果、スピード違反と免許停止を何度も繰り返し、最後は一年間の免許取り消し処分に。

どうしようか困っていたところ、フィリピンの取引先の日本人社長から「パスポートのコピーと2万円の費用で、政府発行の正規の国際免許証を作れる」という話をもらった。
あの頃の東南アジアは、大概のものがお金でどうにかなった時代だった。
若かった私は、その話に乗りたくてしょうがなかった。
ところが、いざ頼もうかと思ったら、急に怖くなった。
もし事故を起こしたらどうなるのだろう。
保険はどうなるのだろう。
もしかしたら公文書偽造で捕まってしまうかも。
結局、お願いはしなかった。
こういうところは小心者だった。

一年後、運転免許を取れる状況になったものの、時間がもったいなくて教習所へ通う気にはなれなかった。
そこで今度は、奈良県の公安に伝手がある人を頼り、奈良に住民票を移して、一発試験を受けに奈良に通い免許を取り直した。
今ならとても人に言える話ではないが、当時の私は一日も早く車に乗りたかったのである。
さらにフィアットではもう一つ、忘れられない思い出がある。
夏の日差しを浴びながら「オープンカーって最高だな」と悦に入っていた。
そして人生で初めての熱中症に罹った。当時は「日射病」と呼んでいた時代である。

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(大学時代の友人三人、トリコロールカラーで同じフィアット124スパイダー)

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フィアットとの日々は、若気の至りというには少々やり過ぎであった。
車そのものは、イタリア製らしく信頼性などは無いに等しい車であった。
ワイパーすらまともに動かない。雨が降ったら片方のワイパーを外し、ワイパーモーターへの負荷を減らし、どうにか動かしていた。
当時のイタリアは日本同様に敗戦国の弱い立場が残っていて、他国から安物の鉄鋼を買わされていたようで、錆にも悩まされた。

それでもピニンファリーナデザインによるプアーマンズフェラーリと呼称されたデザインは素晴らしく、アバルトのパーツで武装した124スパイダーは私のお気に入りだった。
当時の人気漫画「サーキットの狼」に端を発したスーパーカーブームに触発されたカメラ小僧と呼ばれた少年達に、行く先々でカメラを向けられ、車の名を聞かれ、フィアット124スパイダーと答え「フェラーリじゃないのか…」 とがっかりされるのは、結構つらかったけど。

フェアレディ280Z(S130)

1978年:2代目(S130型)の2.8Lモデル。国産最高峰のGT(グランドツーリング)カー。

そんなこんなでよく壊れるイタリア車に少し疲れ、結婚したこともあり、1978年発売されたフェアレディ280Z(S130)を新車で購入し、壊れない国産スポーツカーで、危険なカーライフと離れる事に決めた。 人生初のオートマチックで快適至極。エアコンも効く。故障もない。デザインもかっこいい。さすが最新の日本車、文句のつけようのない車であった。

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(私の黄色い280Zと一緒に写っているのはお揃いで買った義弟の280Z)

壊れない。
それはすぐに退屈に変わった。
退屈は長く続かない。
そして私は懲りずにアルファロメオへ戻っていく。

アルファロメオ アルフェッタセダン2000/アルフェッタGT

1972年:トランスアクスル配置(後部に変速機を置く)を採用し、理想の重量配分を追求したセダン。
1974年:数々の名車を手がけたジウジアーロがデザインした流麗なファストバック・クーペ。アルフェッタのクーペ版。

茄子紺色のアルフェッタセダン2000。
続いて、コーヒーブラウン色のアルフェッタGT。
しかしこの頃のアルファロメオは業績的にも低迷期に入っていた。
排気対策を施したスピカ製インジェクション(燃料噴射装置)を搭載し、腑抜けになったエンジンはかっての1300GT juniorのようなウェーバーキャブレターの快音は望むべくもなく、錆や雨漏りは当たり前の車達。 故障の思い出にも事欠かない。

特に困ったのはすぐ壊れる燃料ポンプだった。
突然、ガソリンが来なくなってエンストする。
かなり困るタイプの故障であった。
そこで編み出した、我が家独自の応急処置は何とも原始的だった。
妻に後ろのバンパーに乗ってもらい、車体を揺すってもらう。
すると、ガソリンがエンジンに送られるので、しばらくは走ることが出来た。
修理する。またエンストする。また修理する。
これを何度も繰り返した。

最終的には、信頼性皆無のイタリア製ポンプから、サイズの合う日本製(いすゞ製)に交換したところ、完治した。
アルファロメオに乗っていると、故障した車をどうやって走らせるかの知恵が身につく。
すっかりイタリア車のマゾっ気にやられていたのだろう。
手のかかる子ほど可愛という諺もあるが、私はアルファロメオに乗っていられるのが嬉しかった。

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(目の前はタコメーターだけで、後のメータはセンターパネルに集めた雰囲気重視のデザイン。)

1980年代

ホンダ・レジェンド

1985年:ホンダ初の高級V6セダンとして誕生。後にF1を彷彿とさせる名機を積んで一世を風靡。

子供の誕生を機に、良いお父さんになろうと思った。
そこで選んだのは1986年に発表されたばかりのホンダ・レジェンド。
アコードの成功で勢いに乗っていた、ホンダ初のフラッグシップモデル。
趣味としての車でなく、家族を安全に運ぶための車であった。

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でも車好きというのは厄介な生き物である。
普通の車、壊れない車にはすぐ飽きてしまう。
飽きると無意識に別の車を探し始める。
良き父親はどこかに行っていた。

BMW528i

1981年:2代目5シリーズ(E28)。M535iのスポーティな装いを取り入れた人気のハイスペックセダン。

そんな時、目を付けたのは義母が購入したばかりの右ハンドルのBMW528iだった。
当時は右ハンドルの輸入車は珍しく、右ハンドルをアピールした見知らぬ業者の新聞広告に見事に釣られて購入した義母は「乗りづらい、なんか変」と不満顔で全く乗らない。
私は走行1千キロに満たないBMW528iを身内価格で譲り受けた。
だが、家に持って帰るために走り始めた時から、変な振動が。
義母の「なんか変」は当たっていた。
ホイールボルトの1本が斜めに取り付けられていた。
エンジン壁面の防水パッキンも嵌まっていないため、雨水が足元から乱入する。
極めつけだったのは、伊豆へ家族旅行に行った帰り、東名高速を走っていた。
シルキーシックスと呼ばれたBMWの直列6気筒を楽しもうと、アクセルを踏み込んだ。
その瞬間だった。
突然、前方が真っ白になった。
水温計を見ると、針が振り切っていた。
慌てて路肩に寄せ、JAFを呼んだ。
ファンベルトが切れたのだと思った。

ところが、JAFの人がエンジンルームを覗き込んで首をかしげる。
ファンベルトは切れてなく外れていた。
ベルトを回すプーリー(滑車)を固定するネジが本来3本で留めるべきところ、手抜きで2本しか留めてなかった。
急加速で負荷がかかった瞬間、プーリーが歪み、ファンベルトが外れてしまったのだ。
JAFの人は、歪んだプーリーの形を整え、切れて広がってしまったプーリーの穴を補強するためのワッシャを探すも、合うものが見つからなかった。
苦肉の策で、取り出したのはなんと5円玉。
ワッシャ代わりの5円玉で、修理工場まで走ることができた。

なんでこんなにトラブルが多いのか、帰ってから急いで調べてみた。
ドイツ製でなく、南アフリカにドイツからパーツを持ち込み現地で組み立てられたノックダウン車だった。
諸々のトラブルは工員の練度の低さや手抜き作業で、さらに日本での未検品が原因だった。
南アフリカはイギリス領だったことで、左側通行のため右ハンドルであることに目を付けた並行業者が輸入した出来損ないだった。
気になる不具合を一通り直し、Mスポーツのエアロ、BBSホイール、レカロシートを奢り、外観だけは自分好みに仕上げたものの、長く乗る気にはなれなかった。
業者の間でも南アフリカ製の右ハンドルBMWの話は有名だったみたいで足元を見られ、不本意な値段で手放すことになった。

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アルファロメオ164

1987年:ピニンファリーナによる直線基調のスタイリッシュなデザインを纏った、FF最上級セダン。

その次に購入したのがアルファロメオ164。
フィアット、ランチア、サーブ、アルファロメオの4社による共同開発プロジェクト、ティーポ4から生まれた意欲作だった。
そして私は驚く。
これまでのアルファロメオとはまるで別物のものすごく良く出来た車だった。
アルファロメオらしさは健在だし、素晴らしい6気筒エンジンの咆哮は私を酔わせ、故障を考えずに、どこまでも走っていけそうな安心感もある。
長く付き合えるアルファロメオに出会った気がした。
アルファロメオのチューニング部門であるアウトデルタのホイールやエアロを奢り自分好みのスタイルに仕上げた。
だが人生は車の都合では動いていない。

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その頃、私はインドネシアのバンドンで会社を設立していた。
時代はバブルに入っていた。
世の中は浮かれ、調子に乗ったバブル紳士達が街に溢れていた。
自分は悪乗りしないぞと心に言い聞かせていても、知らずに染まっていた。
取引先は頻繁にパーティを開き、銀行は無尽蔵に金を貸す。
40歳を迎えた私は、銀行や取引先におだてられ、すっかりヤングエグゼクティブ気取りで調子に乗っていた。

ジャガーXJ6-3.2(XJ40)

1984年に発売され1994年まで製造された。フォードの傘下に入ったことで、信頼性が劇的に向上したモデル。

長年愛したアルファロメオと決別し、勢いに乗っていた私が次に向かったのは、いつかは乗ろうと決めていたイギリスのジャガーだった。
購入したのはウエストミンスターブルーのXJ6-3.2(XJ40)。
憧れていたけど壊れやすいと悪名高かったXJシリーズ3の後継モデルである。
なぜジャガーに憧れていたかというと、赤坂で見た大女優、山本陽子が乗っていたXJシリーズ3の白いボディにバーガンディ(濃い赤色)の内装のカッコ良さに憧れていたからだ。
たいした理由ではないけど、車好きはそんなもんである。
XJ6-3.2はジャガーのベーシックモデルであったが、ウオールナットと本革シートが織りなす重厚なインテリアはイタリア車とも日本車とも違う上品な大人の雰囲気があった。
私はすっかり英国紳士になった気分だった。

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ジャガーXJ6-4.0(X300)

1994年〜1997年:排気量アップによる豊かな低速トルクと力強い加速が魅力。ジャガーらしい重厚感と余裕のある走りを楽しめる上位モデル。

さらにXJ40の進化版であるXJ6-4.0(X300)に乗り換える。
これは本当に素晴らしい車だった。
前車のXJ40と、骨格やエンジンなどの基本は共有しているのに、ジャガーデザインの傑作、シリーズ3を彷彿させる丸みあるデザイン、直進安定性、コーナリング性能、エンジン制御等々、性能も信頼性も格段に進歩していた。
トパーズという名のシャンペンゴールドのボディカラーとベージュのインテリアも上品で好きだった。
前のXJ40はワイヤーホイールやウッドステアリングなどで、古き良き英国風に改造していたが、X300は完璧すぎて弄ろうと思わなかった。
「今度こそ長く乗るかもしれない」
珍しくそう思った。

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1990年代

しかし、その頃、人生最大の逆風が吹き始める。
バブル崩壊。
主要顧客の四分の三が倒産し、15億円あった年間売上は4億円まで下がってしまった。
父親が銀行から借り入れて購入した土地やゴルフ会員権、数億円は紙くず同然に。
倒産した取引先の手形の買戻しや、自社が発行した手形の決済も数億円。
さらに追い打ちをかけるように、インドネシアで立ち上げた1500坪の工場が全焼した。
立て続けの負の連鎖で、会社は莫大な借金を抱え、大幅な債務超過状態に陥り、銀行からも見放され、存亡の危機だった。
そのタイミングでやる気を失くした父から社長職を引き継ぐ。
会社を立て直す。
それだけを考え、活動する日々が長く続いた。
そんな時、顧問弁護士の先生に言われた一言。
「池田さん、ジャガーで銀行回りはまずいですよ。」
私は気に入っていたシャンパンゴールドのジャガーを手放した。

オペル・オメガV6ワゴン

1994年:2代目(オメガB)。質実剛健なドイツ製FRワゴンとして、日本でも大ヒット。

代わりに選んだのはオペル・オメガV6ワゴン。
地味ながらも個性のあるオメガワゴンのデザインは、気になる存在だった。
取引先だったヤナセの知人が中古車部の店長になっていたので、下取りで入庫した低走行で状態の良い車を格安で分けてもらった。
自分でも呆れたのは、なりふり構っていられる状態ではないし、資金の余裕もないのに欧州車に拘ってしまうことだ。
たしかにどこに止めていても、国産車並みかそれ以上に目立たないグレーのオペルワゴンは目的にかなっていた。
ただ車好きがオペルで長い間、満足できるはずもない。
車は私にとって移動手段ではなく、趣味であり、友であり、気持ちのよりどころでもあった。

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MG RV8

1993〜1995年:名車MGBのルックスを現代に蘇らせ、ローバー製V8を搭載したモダンクラシック・オープン。

そこで会社にも親族にも内緒で、もう一台購入する。
MG RV8。バブル期に復活した限定版の英国製ロードスターである。
義弟の友人であった銀座の社長から、格安で譲り受けた。
V8の4リットルエンジンを小さなボディに積みながらも、走りはユーノスロードスターにはるかに及ばない車だ。 1960年代のMGBのデッドストックのシャシーをそのまま使い、リデザインしたボディとロールスロイス並みの手作りインテリアを与えた、希少性だけの車だった。
リーフスプリングの乗り心地は酷いもので、遠出する気になれる車ではなかったが、ガレージに置かれたMGは眺めているだけで仕事に疲れた気持ちを慰めてくれた。

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2年ほど本妻(オメガ)を表で乗り、裏で愛人(MG)と遊ぶ仮面生活を続けた。 会社の状態はICUから一般病室に移り、徐々に回復途中であった。 会社再建のため、小石川の自宅を手放し、その資金を会社に貸し付けていたのだが、その一部が戻ってきた。

サーブ9.5 2.3

1997年:スウェーデンの航空機メーカーの DNA を持つ独創的なプレミアムセダン / ワゴン。

少し使えるお金ができると、我慢できない。車好きは不治の病かもしれない。 さっそく、オメガを前述のヤナセの店長に引き取ってもらい、サーブ2.3を購入。 サーブもその地味な外観が会社再建中の私にはふさわしかった。

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ポルシェ911(964)

1993年:伝統の空冷911(964型)の末期に登場した、低いフロントウインドウが特徴の極めて希少な限定車。

そして従業員はおろか親族には話さなかった日陰の愛人(MG)とは別れて、新しい愛人、
ポルシェ911(964)のスピードスターを手に入れた。もちろん誰にも秘密で。
新たな本妻(サーブ)と愛人(911スピードスター)との関係を続けながらさらに3年ほどが経った。
会社の膨大な借金も徐々に減り、常識の範囲に近づいた。
バブル崩壊後の5年に及ぶ私の成果は、銀行をしてあり得ないと評価されるほど神がかっていた。
私にそんな実力があるわけではなく、運がほとんどだったけど、結果よければすべて良し。

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(スピードスター、メーター周りの白は、ボディと同色に塗られていた。)

2000年代

ジャガーS-type3.0

1997年:往年の名車「レトロ・ジャガー」のモチーフを現代にリバイバルしたミドルクラスセダン。

家を買おう、そして、ジャガーに戻ろう。
まだまだ借入金も多く残っているので、いきなりXJに戻るのは世間の目もあると思った。
そんな中途半端な気持ちから選んだのが、ジャガーはジャガーでもアメリカのリンカーンをベースに名車MK-Ⅱに似せて作られた一回り小型のS-type3.0だった。

また愛人のポルシェ911(964)スピードスターはジャガーに乗れるなら2台はいらないだろうとマンションの頭金の一部に充てた。
しかし、この選択は後に大変悔やむことになる。
スピードスターを買った当時はバブル崩壊の余波で車業界もどん底だった。
走行僅か6,000kmの極上車を私は5百万円で買っていた。
3年間楽しんで購入額より少し高く売却できた。
当時は「十分に楽しめたし、いい値段で売れた」と満足していた。
ところが十年ほど経ったある日、愛読書のカーセンサーを眺めていると見覚えのある個体が目に入った。
私が乗っていた車、そのものだった。
価格は、なんと7千3百万円。
何かの冗談かと思う値段だった。
世界限定936台、日本限定30台ということは知っていたので、いずれ多少の付加価値がつく可能性はあるとは思っていたけど、これほどとは。
持っていればと後悔しきりであった。

ジャガーS-type2.5

一方、新たな愛車となったジャガーS-typeは期待外れを上回る出来の悪さだった。
吹け上がらないエンジン。
シフトショックの大きいAT。
趣味の悪いダッシュボードと、ビニールのような質感のレザーシート。
出来の悪いアメリカ車に乗っているようで「これは本当にジャガーなのか」と首を傾げた。
早々にジャガー自身も失敗を認めたのだろう。
数年経たずに、費用の掛かる外観こそ変わらないものの、中身は別物と言えるほどの大掛かりな改良が施された。
「最初からこれ作れよ!」
買い替えたくて我慢できずに(いつものことだけど。)、同じシルバーのボディカラーの改良型S-type2.5に乗り換えた。
なぜ同じボディカラーかというと、会社の再建も道半ばだったので、従業員にも、銀行にも、取引先にも気付かれたくなかったからだ。
我ながら完璧な「金太郎飴作戦である。

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(外観は99%同じでも中身は回る寿司と回らない寿司くらいの違いがあった。)

その後、会社の再建もどうにか軌道に乗り、銀行の信用も徐々に回復し、会社への私の個人貸付金も無事に回収出来たので、車に使えるお金にも余裕が出来た。
ここまでの間、置かれていた状況からは考えられないほどの贅沢なカーライフを送っているように見られていたけれど、自分の中には妥協している気持ちもどこかあった。
悪い虫が騒ぎ始めた。

ジャガーXJR(X350)

2003年:伝統の丸目4灯。先進のオールアルミボディにV8スーパーチャージャーを積んだ俊足ライオン。

そんなタイミングでフルモデルチェンジしたオールアルミボディのジャガーXJ(X350)。
クラシカルに回帰したボディデザインとアルミボディの先進技術の融合に心を奪われ、我慢できずに、最強版のスーパーチャージャーの付いたXJRを選んだ。
しかし、それだけでは終わらなかった。

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アストンマーティンDB7-3.2 MT車

1994年〜1998年:3.2L直6スーパーチャージャーを搭載し、美しい流麗なスタイリングと骨太な5速MTの操縦性を両立した近代アストン復活の立役者。

私が世界一美しいクーペだと思っているアストンマーティンDB7-3.2のMT車が、ヤフオクに破格の値段で出ていた。ついでに勢いで落札してしまったのだ。
またしても上品な本妻(XJ)と貴族の愛人(DB7)の2台体制になってしまった。
もっともアストンマーティンに憧れてはいたが、その維持費の恐ろしい噂は嫌というほど聞いていた。
メカ好きのメカ音痴を自認する私は足りない頭であれこれ考えた、古くなると壊れると噂のATは選びたくなかった。
ヤフオクに出ていたのが最初期に2台だけ輸入されたMT車だったのが購入を決意する決め手となった。
さらにDB7の初期モデルは、エンジンは以前乗っていたジャガーXJに搭載されていた直6の3.2リッター、足回りなどの主要部品はほとんど旧モデルのジャガーXJ-Sからそのまま移籍。
つまり手作りの高価なボディを傷つけない限りは、慣れ親しんでたジャガーを扱っている工場で対応可能。
中古とはいえXJRとDB7が並ぶ姿は、傍から見れば呆れられていたに違いない。

ところが19歳の時のフェアレディ2000SR311の悪夢が蘇る。
DB7のクラッチが半端なく重い。
半クラッチがほとんど出来ないレーシングクラッチが使われていた。
以降に輸入されたDB7がすべてATだったのには理由があったということだ。
体育会系とは無縁の中年の貧相な脚力で操れる代物ではなかった。
坂道発進では後ろの車にぶつかるのではないかという恐怖と毎回闘うことになった。
結局、4年間所有して、DB7の走行距離は3百キロほど。
妻からも、珍しく褒めてもらった美しいボルドー色(深い赤色)のスタイルは、いつまで眺めていても飽きることのないオブジェと化してしまっていた。
個人売買で、購入価格より少し高く売れたのは救いだった

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一方、日常の足として使っていたXJRの400馬力のパワーは私には十分すぎるもので、加速や乗り心地も申し分なかったが、問題児でもあった。
V8+スーパーチャージャーが発する熱と日本の高温多湿が災いし、エンジンルーム内が熱くなりすぎ、コンピューターやエアサスペンションなどが次々壊れ、高額修理が相次ぐ。
仲良くしていたサービス工場のフロント曰く「V6モデルならエンジンルームにゆとりがあるので壊れませんよ。」
車自体は好きで手放したくはなかったが、再びの「金太郎飴作戦」を行うことを決意した。

ジャガーXJ(X358)

2007年:X350型の最終フェイスリフト版。丸目4灯クラシック・ジャガー スタイルの伝統的な最後の姿。

こんども従業員の誰にも気付かれることなく、全く同じ色の後期型X358の小排気量モデルへ静かに乗り換えた。
ところが皮肉なものだ。
壊れないジャガーを求めて選んだので壊れない。でも力がない、つまらない。
前のS-type「金太郎飴作戦」の代えて大満足とはならず、前のXJRの良いところばかりを思い出してしまう。
エンジン以外は外観もインテリアも同じだからつい比較してしまう。
昔から変わらない、悪い癖はなかなか治らない。

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振り返れば、若い頃から私の人生は明らかに「車のエンゲル係数」が高すぎた。
よくここまで車にお金と情熱を注ぎこんできたものだと思う。

    60歳を過ぎた頃、節操のない車選びを振り返り、整理してみた。
  • ブランドヒストリーのある車に憧れを持っていること。
  • あまり見かけない、他人と被らないレアなモデルであること。
  • ボディデザイン、ボディカラー、インテリアデザインに惚れてしまうこと。
  • 自分の腕に少し余る程度の性能を持っていること。

60歳になってようやくだが、これまでの車選びは、客観的になれず、一分の一のプラモデルを買うような感覚で買い、自分流に弄り、弄ったが故のネガや少々の故障も苦にならなかった。
年を重ねて少し利口になり、車選びも少しずつ変わってきた。
車は弄らずノーマルが一番ということと、故障が多いのは手に余るということを覚えた。

もう一つ、自分でも変わっていると思うのは、新車より新車同様の高年式中古車を意識的に選んでしまうことだ。
これはジャガーを買うようになって出来た新しいマイルールだ。
一年落ち未満、走行3千キロ未満くらいの傷なしのディラーの展示車が好みである。
理由は単純で、ジャガーのような車は、ナンバーを付けた段階で、かなり値落ちする。
そこからは緩やかに値を下げてゆく傾向があり、私のように。衝動的に買い替えてしまう性癖がある問題児でも、金銭の負担を小さくできる良い方法だということ。

また、新車は仕様を決めるまでは眠れないくらい悩み、数か月待って、納車された瞬間から「あっちの色にすれば良かった」「あのオプションを付ければよかった」とすぐにないものねだりの後悔が始まること。
しかも高価な買い物だけに、「長く乗らなければ」という妙な義務感まで付いてくる。
その点、高年式中古車はすでに仕上がった一台である。
現車を見て、直感で欲しいと思えば、それが運命の一台。
待たずにすぐ手に入れることができる。
高年式なので保証も十分残っている。
つまり私にとっては、自由度が高く、自分自身に言い訳しやすい買い方なのだ。

閑話休題。

2010年代

ジャガー XJ、X351型

2009年:デザインを一新。それまでのクラシック路線から近未来的なクーペルックへと激変したフラッグシップ。

還暦を過ぎると、二台持ちは洗車(必ず自分で洗う。)など、体力的にも、駐車場や保険などの金銭的にも、負担になってきた。
そこで、「一台で二台分の要求を満たす車」を探し始める。
選んだのは、ジャガー最後のXJ、X351型だった。
周囲からは「でかくて白鯨みたい」「ジャガーらしくない形」と笑われたが、5リッターV8の余裕ある走り、快適な乗り心地、新しいイギリスを感じさせるボディデザインとインテリア、全部が気に入った。

こういう完成度の高い車を良く思えるようになったのは、年齢を重ねて自分も少し落ち着いたせいだろう。
気が付けば5年以上という最長の所有期間になった。
ただイギリス車の常か、この辺から、少しずつ故障の予兆も出てきた。
ぼちぼち買い替え時か。

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BMW530i-Mスポーツ

2017年:7代目5シリーズ(G30)。直4ターボながら伝統のスポーティな走りを極めたモダンセダン。

タイミング良く、BMWの営業から一本の電話が入る。
業績対策で過剰登録した新古車が大量にストックヤードにあるので、気に入った車があれば、驚くほど安く売ってくれるという。
加齢による体力の衰えを日々感じていたので、運転支援機能に定評のあるドイツ車にも興味があった。
破格の安さに、渡りに船と、BMW530i-Mスポーツに乗り換えてみた。
デザインやインテリアは私の好みとは違ったが、動力性能はさすがBMWで素晴らしかったし、ボディのしっかり感もイタリア車やイギリス車と違い、安心できるものだった。

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しかし、私はどうしても直列4気筒エンジンの持つ軽快なフィーリングを好きになれなかった。
半年も経たずに売却した。
安く買ったので、ほとんど損はしなかった。

2020年代

AMG CLS53

2018〜2023年:3代目CLS。直列6気筒ISGターボを搭載し、流麗な4ドアクーペに圧倒的な速さを融合。

令和の時代が始まっていた。
モーターで走る電気自動車が未来で、ガソリンエンジン車は過去という世論が主流となり、自動車会社は一斉にガソリンエンジン車の順次生産終了を公表していた。
「ガソリンエンジンの時代はもうすぐ終わる」
私の中では、モーターで走る電気自動車は、走る白物家電であって車に思えなかった。
自分の車好きは、ガソリンエンジン車の終焉とともに終えると決めていた。
多分、次の車は最後のガソリンエンジン車になるだろう。
そう思い、若い頃は「年寄りの乗る車」と決めつけ、尊敬できるけど、好きになれない車だったメルセデスへ初めて手を伸ばした。

それでもメルセデスの権威主義的なイメージは嫌いだったので、昔はチューニングメーカーで不良のイメージのあったAMGの、それも普通の人が選ばないAMG CLS53を選ぶことで、自分と折り合いをつけて購入。
乗ってすぐに自分のこれまでのメルセデスに対する思い込みを反省した。
3リッター直列6気筒エンジンの出来は、最高の直列6気筒と評されるBMWに負けず劣らず見事だった。
発進時はモーターが助け、低回転時は電動スーパーチャージャーが、高回転ではターボが力を添える。
4年半乗っていたが、不満は全くなかった。

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その後、欧米の自動車業界の目論見とは裏腹に、電気自動車の普及は思うように進まず、特に車好きが好む高性能なモデルほど、ガソリンエンジン車の需要が強く、メーカーは方針を改め、高性能で魅力的なガソリンエンジン車がまた市場に出てくるようになってきた。

AMG CLE53 カブリオレ

2024年:3.0L直6ターボ+スーパーチャージャーとマイルドハイブリッドを搭載し、圧倒的な動力性能と流麗なオープンエアの走りを両立。

結局、AMG CLS53は最後の車にはならなかった。
AMG CLE53 カブリオレ。
前車のCLS53のエンジンの改良型を積んだ久しぶりのオープンカーである。
口の悪い友人からは「今どきオープンに乗っているのは年寄りばかりだ」と笑われた。
たしかにSUV全盛の時代に、実用性皆無に近い車を選ぶのは普通じゃないかもしれない。
もとより車選びには普通でなかった私にとってはいつもの選択であった。

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動体視力も、判断力も衰えを自覚している私が、いつまでこんな車選びを続けられるか、自分でも分からない。
73歳で選んだこの車、エレガントな姿からは想像できないほど、元気が良い。
昔のAMGを彷彿させるオバーフェンダーと太いタイヤ、固めの乗り味と、進化した運転支援機能も気に入っている。
「今度こそ最後の一台」と思って選んだつもりだけど、次は小さい車になるのか、そもそも次もあるのか。
体力や気力と相談する年になってしまったことだけはさすがに理解しているつもりだけど。

エッセイ:池田 博(車プロフィールは編集部協力)

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