─ 在村文化とは、在村俳人とは(2)─
杉 仁
生業を支える「風雅の信用」
在村文化では、裏の私的な風雅世界でつちかわれた信用、いわば「風雅信用」が表裏一体、表の公的世界の村役や商いなど、「生業信用」をささえました。
風雅文化を身につけた方が、村役や商いなど、生業をうまくやるのに有利だったのです。「風雅の交流」は、「信用の交流」でもあったのです。
生業と風雅が一体、「業雅一体」だからこそ、在村文化は、村役のいるところすべて、商いがおよぶところすべて、「山の奥々津々浦々」までひろまったのです。
雅号には地名肩書をつけますが、在村では、地域内ですぐわかる村名肩書になります。「八王子星布」「高崎一紅」のようにです。交流は、おおむね地域内にとどまりますが、商いの流通路によっては、信州と奥州、武州と越後、上州と能登輪島など、思わぬ遠くとむすばれます。
在村文化の交流は、村から村へ、地域から地域へ、網目状につながりながら、「山の奥々津々浦々」まで、海のように一面にひろがっていたのです。
在村文化は「山の奥々津々浦々」まで
【図1】は、近世中後期の多摩郡でみつけた在村俳人の村名肩書と俳号の人数分布です。右端に「高井戸」、中央寄りに「府中」、やや左寄りに「八王子」、左上隅に「青梅」がみえます。多摩郡ほとんどの村に、在村俳人がいたことがわかります。
【図2】は、新潟県堀之内村大神宮の「奉額句合」六点の分布図です。左図は、塩沢村の『十評発句合』の分布図で、魚沼郡全体にひろがりますが、右図は、そのなかの一地域をくわしくみたものです。途切れたさきは会津まで、「六十里越え」の山ばかりです。「山の奥々」まで、在村俳人がいたことがわかります。
「堀之内村大神宮奉額句合」(7点)の入選俳人分布(村名)
【図3】は、房総の夷隅郡鴨根村(いま岬町)、「清水寺」の芭蕉句碑「杉間塚」の建立記念句集『杉間集』の参加者の房総分布図です(江戸までひろがるが人数は省略)。湊や小さな漁村もふくめ、「津々浦々」までひろがっているようすがわかります (拙著2001・2009より)。
このように、江戸時代に成熟した近世文化は、「都市文化」と「在村文化」の二つから成り立っていました。江戸文化の高いレベルは、「都市文人」と「在村文人」双方が支えあっていたのです。
千葉県船橋市三咲に住んでいる私の友人は、「散歩する近所に在村俳人の墓があった…、市指定の文化財になっている…」といっていました。さきの「下総大穴園女」の墓のことです。
全国どこにでも、「あなたの隣の一茶たち」がいたのです。
以下、「在村文化」と「在村文人」、とくに、「在村俳人」の活動を、くわしく見ていきます。(以下省略)
在村文人と思われる墓(静岡県富士市)
「白雲軒雁行之墓」と刻まれてている。
1934-2012年、東京に生まれる。1958年、早稲田大学第一文学部史学科卒業。1960~98年、早稲田実業学校教諭、ブラスバンド部顧問。1961年、早稲田大学大学院文学研究科修士課程修了。1971年、早稲田大学大学院文学研究科博士課程修了。1975~2005年、早稲田大学非常勤講師、テレビ日本史講座でも活躍。2001年、博士(文学)授与。
※この原稿は、記念冊子用に逝去直前に受け取ったものです。