─ 在村文化とは、在村俳人とは(1)─
杉 仁
江戸時代の農村・漁村に文化はあったのか?
第八回「徳川賞」を受賞された
歴史学者・杉仁先生執筆の専門書、
『近世の在村文化と書物出版』を
わかりやすく解説していただきました。
徳川賞とは:
公益財団法人徳川記念財団が制定している名誉ある賞。日本近世に関する研究を積極的に奨励し支援する目的で設定され、特に優れた研究書に対して贈られる。審査がきびしく、該当なしの年もある。
「江戸文化」意外史、 農山漁村でもさかん
農山漁村に「文化」があったのか…。
そう思う人は少なくないはずです。しかし、「文化」をどうみるかによって、話は大きく変わります。
「文化」とは
そもそも「文化」とは何でしょう。多くの人々がいろいろ述べていますが、
むずかしい議論がほとんどです。
私の師事した「西岡虎之助*」先生は、
人びとが生きているありのままの姿をもとに、わかりやすい言葉でこう述べています。
「人間が生きて行くためには多少の努力がともなうものであるが、その現れが文化であり、したがって文化史は人間の努力の過程といえる」…。
人間の努力のあらわれが、「文化」だというのです。
*和歌山県生まれ、1895~1970年。荘園史・民衆史・女性史などの先駆者として活躍されました。この文章は、1938年(昭和13年)の「日本女性文化史研究発表会開会の辞」(於 日本女子大学)で、女性も努力しているから〈女性文化史〉がある…、という画期的な発言です(『著作集』第四巻所収。三一書房1978年)。のち『日本女性史考』も刊行しています。
人はだれでも、よりよい事(おこない)、よりよい物(つくりだしたもの)を求め、それぞれなりに努力して生きています。人はすべて、「文化」をつくり出して生きているのです。
人はだれでも、赤ん坊でも、這いだし、歩きだし、おしゃべりしだす…。すべて一生懸命、努力してなしとげた「文化」です。育児も、赤ん坊の文化努力をたすける「文化」です。障害ある方の努力は、最高の「文化」といえましょう。
人はだれでも「文化」をつくりだしているとすれば、これまで「文化」とは縁がないと思われた人びと、とりわけ農山漁村の人びとは、どうなるのでしょう。
じつは農山漁村(在村)にも、ゆたかな文化がありました。だれも目をつけなかっただけです。これを「在村文化」と名づけました(拙著『近世の地域と在村文化』2001年、『近世の在村文化と書物出版』2009年)。たしかにあなたの隣にも、「一茶」のような俳人、文化人が大勢いた…。これが近世江戸時代でした。
農山漁村でも「文化」はさかん
まず、農業や蚕業や山林業や漁業の「生産活動」そのものが、「文化」です。よりよいものを、よりたくみに、より工夫して作りだす…、よりよい価値をもとめて努力する生産活動は、立派な「文化」です。「生産文化」と名づけました。
生産の工夫を書きとめ、人びとに弘めようとする技術書「農書」や「蚕書」があります。
生産と生命をさまたげる災害や飢饉の記録、大勢が命をかけて立ち上がる一揆の記録…。地域の歴史や地理をまとめた「地誌」もあります。出版されたものも少なくありません。
家事や育児も、よりおいしく、より健やかに、よりよい価値をもとめて努力する、立派な「文化」です。「生活文化」と名づけています(挿絵は破魔矢をもたせ子を慈しむ俳人)。
そのころ、「文化」という言葉はありません(元号にはありますが)。とくに学術や芸術など、今でいう「文化」は、風雅、風流、 好事(こうず)、好学、などとよびました。あわせて「風雅文化」と呼ぶことにしています。
人数の多い順に、俳諧(俳句)、書画、茶道、花道(挿絵は活花にみとれる女流俳人「桐生綾女」)が最下層、さらには狂歌や俳諧師匠が中層で、最上層は和歌や漢詩文です。学問や教育は、庶民の「読み書きそろばん」から、中国輸入で学者たちの「儒学」まであります。
近世江戸初期、武家や町人の「都市文化」にはじまり、まもなく農山漁村の在村へひろがりました。
こうした農山漁村の文化活動、「生産文化」と「生活文化」に「風雅文化」をあわせたものを、「在村文化」と名づけ、とくに風雅文化で活動する村の文化人を、「在村文人」と呼んできました。
「在村文人」は村民の上層で、全村民の一割10%くらい。名主や庄屋や組頭など、代々村役につき、たくわえた富で商工業もいとなむ、村役豪農商たちです。
専業の文化人ではありません。村役と生業と風雅を一身に担って奮闘する、「業雅一体」の活動でした。
村役豪農商層は、年貢の立替えなどによる金融業、地域産物の仲買業、小作米や買い入れ米による醸造業など、商工業をかねて大きな富をあつめ、富豪になります。格式張って贅沢し、家計にゆきづまる大名や武家にも金を貸し、利子をかせぎます。これらの富が文化活動の財源にもなりました。
文化の世界は身分上下なし
俳諧や狂歌、和歌や茶道は、仲間と座を組み、句会や歌会や茶会を開いて技を磨き合います。風雅文化に、交流はつきものでした。「座の文化」、「交流する文化」といえます。
農山漁村でも風雅交流はさかんでしたが、交流の仕方に特徴があります。一言すれば、身分上下は問わない、「対等な交流」です。
村役や生業は、表の公的な「実名」(農民なら年貢負担者名)でおこない、身分上下を重んじますが、風雅は、裏の私的な「雅号」でおこない、身分上下を問いません。作品の善し悪しは実力次第、身分や性別や年令をこえ、対等に評価されます(評価のときは無記名がきまりです)。
私的な風雅交流の文化世界は、一種対等の世界だったのです(社会では格差は大きく平等ではない「対等」)。茶道では、武家も茶室(風雅世界)に入るときは、身を守り身分をしめす刀剣は手放し、所定の棚に収めねばなりません。
ほとんど乞食(こつじき)あつかいの俳諧師も、身分の高い大名や武士の句会にまねかれて同席します。
俳諧師の多くは、句作と俳諧の指導のみで生きています。小林一茶のように貧しく、パトロン門人の豪農商文人たちの援助で生きざるをえません。乞食同然とみなされていました。そうだからこそよい句ができるとして、あえて乞食(こつじき)たろうとしたのが「松尾芭蕉」(初号「桃青」)ですが、磐城平藩の第六代藩主「内藤義英」俳号「露沾(ろせん)」の江戸屋敷の句会で、しばしば同席していた事実は有名です。
もちろん、「男女差」、「年令差」、「職業差」もありません。ただし、俳号□□の村名肩書■■に、「女」「遊女」「盲人」、あるいは「少年」などをつけて、区別はしています。「■■女□□」、「■■遊女□□」のようにです。
「加賀千代女」や「下総大穴園女」(船橋市大穴、挿絵は八十歳記念集の雀とたわむれる園女)のように、雅号に「女」や「尼」(夫や師の没後に剃髪すると「尼」)をつけるものもいました。
句の善し悪しの評価に男女差がないことは、最初に紹介する女流俳人「八王子星布」がよい例です。関東西半分の地域では、俳諧宗匠のトップでした。
八〇歳記念句集『春山集』(1814文化8年刊)の入選者は、多摩郡から武州(東京埼玉)、相州(神奈川)、甲州(山梨)にかけてひろがる、大勢の門人たちでした。
女流でも、これだけひろい地域から門人があつまったのは、男女差を問わない風雅文化ゆえのことです。